2016年08月15日

転生を繰り返し


二十五歳の冬、僕は初めて日本を出た。

 今から思えば、よくそんなことができたなと思うのだが、それは幸運と怖いもの知らずの度胸の賜物だ。大学を卒業した僕が就職した先は、週刊紙を発行する新聞社だった。発刊日は金曜日。ウィークリーというよりは月四回の発行というのが正しく、五週めは発刊がないのだ。おまけに、新年号というのは特別紙面であり、十二月の初旬にはすでに原稿が完成しているのだ。そして、入社した年の十二月は金曜日が五回まわってくる月だった。つまりは年末年始の約二週間は始まったくの空白期間ができるということになる。
 図々しくも、新入社員の僕は、編集長に向かって數學老師
 「ともかく二週間の休みをください。仕事として、テーマを設定し、新聞一ページ分のルポを書きますから。ただし、交通費も原稿料も請求しませんけど」
 とぶちまけたのだ。こんな大胆な主張をかます新入社員もないものだが、編集長も人間ができていて、あっさりとOKを出したのだ(もっともしばらくの間、先輩諸氏からは生意気なヤロウとして目をつけられる羽目になったが)。

 当時はバックパッカーなどという洒落た言葉はなく、放浪する若者をとりあえずひっくるめてヒッピー扱いしていた時代だ。そして、多くの若者がそうであったように、僕もまた、旅を通して自分自身を見つめようとしていた。今風にいえば、それは自分探しの旅ということになるのかもしれない。もっとも、僕らの世代は、そんな恥ずかしい言葉は絶対に使わない。

 初めての海外に選んだのはネパールだった。
 カトマンズ入りしたその夜に、ナイトバスでバイラワに下り、ルンビニー、テラウラコット(カピラバストゥ)をまわる。花まつりの頃の文化欄に、釈尊の生誕地を訪ねるルポを書くつもりだった。ラッキーなことに現地で知り合ったK・B・チェトリというネパール人の案内で、仏教の専門誌でもほとんど紹介されたことがないデヴダバという村を訪ねることができたのだ。ここは釈尊の母・マーヤー夫人の故郷だ。お陰で、からし菜の畑が黄色い花で染まるこの村の訪問記を、釈尊と母の物語としてルポ風にまとめることができた。
 おまけにチェトリさんは、チトワンからポカラ行きのバスが出るからといって、チトワンの近くの自宅まで案内してくれた。チェトリさんの家は十人を超える大家族なのだが、近所からも物珍しげに誰彼となくやってきて、賑やかな宴になった。ぼくはそこで、かなり強いロキシーをたらふくご馳走になった。当時、ロキシーという蒸留酒は、各家庭の自家製で出来が悪いと失明することがあるといわれていた酒だ。客に振舞う以上、それはその家自慢のできのいいものだったに違いない。
 ところが、そんなことはお構いなしで、僕が飲むので、「家のロキシーがなくなる。もっとゆっくり飲んでくれ」と言われてしまう始末。チェトリ家には高くついた客になってしまった。僕は恐縮し、お礼に日本から持ってきたサントリーのホワイトと南沙織のカセットテープをチェトリ家に進呈した。
 多少、安上がりではあったが、チェトリ家への一宿一飯の恩義も果たしたし、会社への義理も果たすことができる。翌朝、チェトリ家を辞した僕は、揚揚としてバスの天井の荷台に乗り(ネパールのローカルバスではよくあるのだ)、ヒンドスタン平野を眼下に見下ろしながら、神々の座を目指した。

 そして、二十五歳の正月を、僕はヒマラヤを臨む小さな村で迎えた。
 その日の午後、僕はポカラの広場で、チベット商人から小さなアンモナイトの化石を買った。それは理科の教科書に出てくるようなくっきりとした流線型で、何とも美しい黒の光彩を放っていた。僕は初めて見るホンモノの化石に、少年のように心を躍らせ、何としてもネパールの旅の記念にそれを手に入れようと心に決めた。
 チベット商人の提示した額がいくらだったのか、覚えていないが、そもそも相場を知らないのだから、判断のしようもない。しかし、この国に定価などあるわけもなく、吹っかけてきているのは間違いがないのだ。僕は、自分でも驚くぐらいのしつこい値切り交渉の末に、ここまで値切ればいいだろうと思う値段で、それを手に入れたのだ。
 ところが、最後に、チベット商人は化石を新聞紙に無造作に包みながら、ニコッと笑ったのだ。「あ、こいつ、しっかりと儲けやがったな」と思ったが、僕としても、初めて海外に訪れ、受験英語を駆使して、ああでもないこうでもないと駆け引きをしながら、勝ち取った戦利品だ。負け惜しみでもなんでもいい。
 「It‘s my price!」。
 そういって自慢げに僕は胸を張って見せた。

 その日は、尾根づたいにひたすら歩き続け、トレッキングコースの入口にあるダンプスという村で、ふつうの農家にしか見えない粗末なロッジに投宿した。居間と思われる部屋の床にはジャガイモがうずたかく積まれていた。ベッドにも土埃がたまっていた。部屋に入ると、宿の親父が温かいチャー(ミルクティー)を入れてくれた。
 無造作に包まれた新聞紙を紐解き、僕は嬉しくて宝物を愛でる少年のように、何度も化石を眺めた。ヒマラヤが海の底だった時代のアンモナイトの息遣いが聞こえてくるようだった。封印された一億年の時が溶け出してくるような錯覚のなか、疲れもあって、僕はまるで魔法にでもかかったようにいつしかまどろんでしまった。

 「へい、ジャパニ!」

 遅くなって、僕を呼ぶ声で目が覚めた。ドアを開けると、宿の親父が「降りて来い」と指図する。ジャンパーを羽織って降りていくと、外にはすでに何人かの同宿の旅人がいた。この季節のヒマラヤの夜は凍りつくような寒さだ。
そして、親父の指す手の先を見上げた僕は、思わず声をあげた。
 何とそこには砂を散りばめたような星屑が広がっているではないか。親父が入れてくれる熱いチャーをすすりながら、僕は天空のパノラマを見つめた。
 宇宙に浮かぶ永遠の旅人。無限の時間と空間が僕を包んでいるようだった。
 僕の意識は、遥か時空を越えて、星たちの来し方に飛ぶ。この中には、もしかしたら一億年前、遥か宇宙の彼方から、例えば、この太陽系第三惑星の中生代白亜紀の海の底に息づく小さな巻貝に、あるメッセージを届けるために、旅に出た星の光があるかもしれないのだ。
 幾万の転生を遡り、一億年前の僕の意識は、どこで何を考えていたんだろう。時を経て、海は山になり、アンモナイトは石に変わり、幾つもの文明が興亡し、そして、僕はいくつもの転生を繰り返し、この時代に生まれた僕が、ついにそのメッセージを受け取る。もしかしたら旅立った星自体は、いまはもうその生命を終えて消滅しているかもしれないのだ。その永遠の時間と空間を内包した宇宙の不思議を思って、僕は不覚にも涙を流した。
 神々の座に瞬く星は、「吾に向ひて光る星」(※)になった。

 
(※)正岡子規は「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」と詠み、「吾に向ひて光る星」に、母の愛を見て取った。芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で、この歌を引用し、星の流転する姿に自らの生死の心情を投影し、一片の随筆を記している   


Posted by guiei at 15:51Comments(0)option